メルケルは偉い!  ゴルバチョフ  ワーグナー  バレンボイム

昨日というより今朝、北朝鮮問題について記したら、今日の朝日新聞の文化欄に多和田葉子が「ベルリン通信」という連載記事の第1弾として、メルケル・ドイツ首相に関する所感を寄せていた。
在ドイツの芥川賞作家である多和田にはあまり興味は無かったけど、昔、立教大院の授業でヒッキー君(現・学芸大教員)が多和田作品について発表してくれたのは覚えている。
それを聴いた時も興味をそそられなかったけど、受賞作「犬婿入り」は自家にあるので読んでみたくなった。
作品とは直接関係ないけれど、この作家の、ひいては多和田が分析してみせたアンゲラ・メルケルには改めて感心したからだ。
行き場のない移民を受け入れるなど、他国の方針とは逆行するヒューマニスティックな行動に踏み切ったメルケルに感銘を覚えたものだけれど、多和田の記事を読んだらこの人はゴルバチョフオバマと同じく素晴らしい政治家であると思えた。
昨日記したトランプやプーチン(やチンケな存在ながら安倍晋三)など、人間としても政治家としても全然評価できない連中と比べるだのも失礼ながら、メルケルは思っていた以上に政治的能力を具えた人だと認識できた(この記事の一読をおススメします)。
多和田の紹介によると、メルケルは徴兵制を廃止したり、フクシマの事故を契機に脱原発を宣言したり、進んで難民を受け入れたりで、とてもトランプや安倍晋三などにはマネできないことをやり遂げてしまったド偉い人物だったのだから驚くばかり。
さらには自らが属するキリスト教民主同盟の方針に反して同性婚を合法化させてしまう一方で、法案には宣言して反対票を投じたというのがとってもオモシロい。
賛成すれば自らの党を裏切ることになるし、同性婚をみとめなければ他の党から連立を断られるから選んだ苦肉の策だったというのだ。
この柔軟さこそが平和と民主主義のために尽くす政治家が体現しなくてはならないものながら、ゴルビーエリツィンが導いた欲望資本主義のために挫折させられてしまった行程は、プーチンの独裁に至りついた今のロシアの惨状を見るにつけて惜しまれる。
ゴルビーのソフト・ランディング方針を当時のロシア国民が支持していれば、その後のロシアはプーチンのような殺人鬼がのさばらずに済んだはずである。
KGB(秘密警察)で身に付けたズル賢さで対立する相手を殺し続けているプーチンとは対照的に、カネ勘定では抜け目がないだけの経営者に過ぎないトランプ(安倍晋三もその縮約版)が、アメリカのみならず世界の弱者の平和と秩序を乱しているのは世も末かと悲観している。
トランプやプーチン(や安倍晋三)の硬直化した連中が跋扈(ばっこ)する中で、メルケルのような柔軟な対応ができる政治家の存在を知ると、とっても元気づけられる。
内心では白人至上主義で硬直したトランプのバカが国内のK・K・Kやネオ・ナチなどの右翼を煽動している時に、ドイツの政治家であるメルケルがナチズムに利用されたために黒歴史に彩られたワーグナーをどう捉え、どう対処しているのか知りたいものだ。
この件に関しては、以前サイードが指揮者のバレンボイムと協力して、パレスチナイスラエル両国の若い音楽家を集めて1つのオケを組織して音楽祭を催したことを紹介したことがある。
バレンボイムの柔軟さは、イスラエルにおける演奏会で最後に(?)毛嫌いされているワーグナーの曲を演奏する前に、聴きたくない人を退場させてでも演奏したというエピソードに現れている。
ワーグナー自身にも反ユダヤ的な著作があるそうである上に、ナチによって悪用されたワーグナーであるだけに、その曲に対しても拒否反応が強いユダヤ人は少なくないというのも当然だろう。
しかしここでも公私混同に似た混乱があることを(バレンボイムに代って?)指摘しておきたい。
ワーグナーが反ユダヤ的な文章を残しているかもしれないけれど(ワーグナー個人のレベルの問題)、そのこととワーグナーが残した名曲が人類の遺産である(公的なレベルの問題)こととは本来直結できないはずだ。
芸術家はうす汚い心を秘めながらも、美しい作品を創り上げるものだというのは常識だろうが、その類の常識を持ちたがらない人々も少なくないようだ。
ナチに協力した指揮者であるクナパーツブッシュの「ワルキューレ」の録音は、古いものながらもこれを超える演奏が未だに現れないと思えるのだけれど、ナチの協力者だったことを理由にクナの演奏を否定できるわけでは絶対ない。
漱石の「それから」にも名が出てくる、部屋を赤と青に塗り分けていたというイタリアの作家○○(名前が出てこない)がファシズムを支持したために戦後は忘れ去られたとすれば、それは作品に読まれ続ける力が無かっただけの話であって、ファシズムとは直接関係ないはずである。
三島由紀夫が「天皇主義」を明確にしながらも読まれ続けているのは、三島の思想ではなくてその文学の力によるのだ(個人的には、今再読中の「奔馬」にはヘキエキしている)。
ナチに近づいたハイデガーが弟子のハンナ・アーレントたちから批判されても、「時間と存在」が今でも読まれ続けているのは、その哲学的意味の強さによるのは明らかだろう(この問題を「100分で名著」ではどう扱うのか楽しみ)。

@ 放送大学で青山昌文の相変わらずの下手な講義を聴きながら(聞いてないか)ブログを記していたのだけど、眠くなったから終りにする。