徳田秋声  古山高麗雄

パソコンの不具合で授業の感想が遅れてしまったけど、15日は徳田秋声「或売笑婦の話」だった。
リーチ君専門の秋声だったので、意欲的なところが議論を呼んで盛り上がった。
売笑婦の話がいきなり語られるのではなく、最初に売笑婦の話を聞いた男を登場させて、彼が伝聞の形として売笑婦に語らせているのは、リーチ君に言わせると「リアリティを抑える」結果になっているとする。
① 一見説得力を感じる考察ではあるが、先々週漱石の話法について講義したように、「身体性を持った語り手」に語らせるのは「大鏡」や「増鏡」など日本では歴史を語るにもその手法を取らなければならなかった事情もあるので、伝聞形式が必ずしもリアリティを減ずるわけではないとも言えるわけだから、さらなる検討を要するだろう。
② 秋声自身がこの作を「コント風の作品」と言っていることを傍証に、広辞苑の意味から「機知に富んだ」作品と解したけれど、「コント」は同時代では単に短さを言っているだけで、今風の「機知」の意味まで含んではいない可能性もあるのでこれも再検討を要するだろう。そもそも言葉の意味を決めるのに『広辞苑』から引用するのは避けねばならないのに、学会発表でも見かける誤りで困ったものだ。
日本国語大辞典』から引用するならまだしもだけれど、それでも同時代の辞典によって意味を決めるのが大原則で、この作品なら『大言海』を引かなければならないだろう。
③ 「通俗的」という言葉をカギにしている榎本隆司の論を引きながら、今後の秋声は通俗小説に向かっていくという結論は思い切りが良かったけれど、「通俗的」か「純文学」かという問題は両者の差異をキチンと押さえた上で論じないと危ない。ストーリーに重点を置かずにリーチ君の言う「断片的なもの」にしたとすれば、それはむしろ「通俗的」なものから離れれる試みであろう。文体の問題も絡むので、面倒で難しい課題だから、これも検討を要するだろう。
④ 登場人物を名前だけで呼ばずに「男・女」と指示していたのが今までの書き方だとすれば、この作品は呼称が安定しているのが特徴だとしたのは面白い着眼だった。しかしこれも漱石について話した時の例、例えば「三四郎」においては指示対象に対する語り手の意識に応じて「男」という呼称を使う時もあって不安定だということも踏まえて考察してもらいたいものだ。
⑤ 発表には無かったけれど、冒頭から第四段落のようにきわめて長い一文が現れるのは、単に悪文と処理しないとすればどう理解すればいいのか?
 ボクの理解では整序化しないでしゃべる感じが出ているとは思うけれど、検討してもらいたい。

短い作品の割には、発表に挑発されていろいろ考えさせられ議論ができた。

次回と次々回は古山高麗雄芥川賞受賞作品「プレオー8の夜明け」です。
発表は古参兵(?)の関口クンです。