【見る】NHK短歌  田村元  仙波龍英  70年代の学生運動  テリー伊藤  夏生いつき  福島泰樹

 Eテレ午後3時からの短歌番組の講師・田村元(はじめ)を、ブログを書きながら見ていたら「?」と感じたことがあった。田村さんが仙波龍英という歌人の作品の解説をしていた時に、酔った女が敷石をはがそうとしている行為を単に悪酔いしたためだと説いたからだ。田村さんの解説によると、龍英が通った新宿の呑み屋(2丁目?)があってその辺りの出来事を歌ったものと考えられると言う。それならなおのこと、敷石は当時の学生運動を前提に解釈しないと作品の面白さが半減どころか100分の1くらいに下がってしまうだろう。

 68年以降の全共闘運動当時、特に御茶ノ水カルチェラタン闘争と呼ばれた対・機動隊との街頭運動の際に、歩道に正方形のコンクリ(1辺が30㎝ほど)が敷かれていたものが、実に効果的な武器となったのだ。このコンクリはアスファルトの車道にたたきつけるともろくも崩れたので、適当な大きさの投石となったからだ。お蔭で機動隊を医科歯科大学方面へ追い出すことができたので、駅周辺が「解放区」となったわけだ。      日大の学生だったテリー伊藤が、投石によって片目が偏向してしまったのは、この時かもしれない。一般の人通りが完全に絶えたにもかかわらず、線路沿いの中華料理屋が営業していたのは不思議な感じだった(確かそこで食べた記憶がある)。幸いその後、機動隊が戻って来なかったので逮捕を免れたけれど、思い出すとゾッとする体験だネ。

 佐世保や羽田、そして三里塚で機動隊と闘った全学連の学生たちの闘いぶりは知らないけれど、全共闘の学生たちが機動隊と闘って勝ったのは、御茶ノ水カルチェラタンと10・21国際反戦デーの新宿駅だけだった。新宿駅には線路脇の無制限な石が実に手頃な武器となったので、機動隊を圧倒して駅から追い出すことができた次第。

 

 新宿駅の石とは異なり、御茶ノ水駅近辺の歩道の敷石は簡単にはがすことができ、もろくも割れて投石しやすい大きさになったので、「敷石を砕いて投げる」とかいうフレーズを含む川柳(?)が流行ったものだ。だから世代的にこの時代を共有したはずの仙波龍英が、酔った女が「敷石をはがさんとする」と詠めばカルチェラタンの闘争を指していると読まねばならないだろう。70年代に生まれた田村元がそんなことを知る由もなく、単に女が酔った勢いで敷石をはがそうとしたと理解しても仕方ない。

 以前NHK俳句の番組で、夏生いつきさんが投稿句のバンド(海岸通り)を音楽のバンドと誤読したのは単なる無知だけれど、田村元さんの誤読は世代的な限界だから仕方ない(夏生センセイは大堀剛クンの句を高く評価して取り上げてくれたこともあるので、非難を抑えておくヨ)。仙波は福島泰樹さんと同じく早稲田短歌会に属していたのだから、直接知らなくても闘う歌人福島泰樹を通して「敷石を砕いて投げる」行為を知っていたに違いない。

 ちなみにこの正方形の敷石は、その後は全国で撤去されて車道と同じアスファルトに変更されてしまい、学生たちにとって「武器よさらば」となってしまったのだネ。