【読む】小林幸夫の志賀直哉「雨蛙」論  『日本近代文学館年誌』19  テクストを《読む》能力

 小林サチオさんから『日本近代文学館年誌』19を贈られた。初めて見る雑誌のような気がするけど、好きな詩人であり作家である小池昌代の巻頭エッセイ「うつし、うつされる川端康成」がなかなか読ませる。エッセイ全5本と論文5本が掲載されている中でテクストを読んだ論は小林さんのものだけであり(あとの4本は調査報告の類)、太宰や志賀の論は「お腹イッパイ」という感じなので敬遠しているものの、小林論は唯一気になっている「雨蛙」という作品を論じているのですぐに読んだ。さすがに優れた《読み手》だネ、お蔭でサッパリできた面白い論文だった(サっちゃん、ヤルね!)。

 以前、宮越勉さんの「雨蛙」論をもらって読んだ時は、相変わらずテクストの文言を事実に還元する読み方だったので失望したものだ。志賀研究は昔からこの手のものばかりだから死ぬほどツマラナかったけど(もちろん価値は別としてネ)、志賀に限らず元になった事実や資料に還元するような論文は楽しくないのだネ。テクストだけで読むというのが基本だと思うがナ。調べる根気もないし・理論を理解する能力もないからでもあるけどネ(笑)。

 さて「雨蛙」は主人公の妻が望まないながらも過失をしてしまうという、志賀作品では「暗夜行路」を想起させるものだ。小林さんが妻の過失を「精神性の欠如」や「人形」扱いにする従来の論をいかに転倒しているかは、自分で読んで楽しんでもらいたいけれど、ヒントとして小林論の章の小見出しを紹介しておこう。

 「2 祖母という権力」(によって主人公の欲望が抑圧される)

 「3 おとなしい男」(そもそもやりたいことがある人間ではない)

 「4 超えている人」(妻の役割という制度から解放されている女)

 「5 姦通の一般的観念を超えて」(物事を呑気に捉え、社会や人間関係への気遣いを一般人のようには持たない妻。夫も通俗的観念・制度を超えている。)

 

 ヒントを元にしてでも以下の結論が出せれば、《優れた読み手》に近づけるヨ。

 《「雨蛙」というテクストは、姦通をめぐる一般的な規範を相対化し、その暴力や無意味性を露呈させた点に最大の価値が認められる。》