日本近代文学会秋季大会  紅野謙介  映画と演劇

 いつもは院入試に重なって参加できない秋季大会(三重大学)に行ってきた。歓迎しない理事会に出席しなくてはならないのは余分だったが(次回は評議員選挙前に辞退する決心)、東京から、そして職場や学生から離れるのはとても新鮮で心が洗われる体験だった。
 ただし頭は東京のままでボケていて、初日の発表は前本は聴こうと思えば思うほど眠りこんでしまった。午前10時から理事会があったので無理して起きたせいもあり、決して発表がツマラナイせいではないので金子明雄さん、ご容赦! 3本目は疲れが取れたせいか、しっかり聴けたものの、粗が目についた点は困った。鶴見太郎氏のものだが、内容は分かりやすくてそれなりに面白さも無くはないのだが、「情無かりし・小野・行人」等の読み方がメチャクチャでオイオイという感じ。せっかくの発表内容に信用が置けなくなりそう。学生も前にしてハズカシイことだから、今後は気をつけて欲しいもの。
 会員外のこの種の間違いでは、以前も樋口覚さんが朔太郎の「天上縊死」の「いし」を「あいし」と読み(たぶん「溢」と混同した結果)、当時まだ元気だった長野隆から「裸の王様」ぶりを指摘されたのを思い出す。学生諸君、私のゼミでは発表の後にまず誤読・誤字レベルのチェックから始める理由の一端が察せられるだろ? 漢字の読み書きは一度間違ったまま覚えていると、なかなか訂正する機会が訪れない。今や流行作家となった(?)ボッキマン(松波太郎)が一橋大院の授業で、こうした私のゼミの進め方に感心していたのを思い出す。
 二日目は早く帰るので、朝の最初の発表から聴きにくるヨと運営委員長のシュンジさんに決意表明しながら、初日は鳴った目覚ましが鳴らないという協力を得てミゴトに遅刻。到着早々に委員長に詫びを入れたら「オレも同じ穴のムシナで、、、」というシュンジさんの返事に勇気百倍。2本目の途中から拝聴したが、信用できる参加者から「1本目は聴かなくて良かったですヨ」と言われてチョッと得した気持ちになった。もちろん聴いて良かったという人もいただろうが、2本とも「コントラプンクト」という音楽用語を駆使した(?)発表だったので気にはなっていた。この言葉はバッハがらみで記憶していたが(ブラームスの4番の第4楽章が対位法で書かれていたはず)、それを気安く他分野で使われると軽挙妄動のように感じられるものだ。もっとも少なくとも2本目は、発表者がそうした軽はずみをしたのではなく、村山トム自身が無闇と使用したタームだそうで、已むなしと納得。
 ともあれ久しぶりに見かけた和田敦彦氏(昔、運営委員として一緒にナスを好んで食した)のミもフタも無い質問で、前半の発表が「獄中だからこそ発想し得た」という無理な、そして滑稽な内容だったと知ることができた。実に分かりやすい発表で種々教えられたことも多かったが、切り込みが甘い発表でもあって紅野謙介氏の相変わらずの冴えた白刀一閃の餌食になったのも已むを得なかった。
 しかし謙介氏の指摘にも「んっ?」と思われるところがあり、未だにスキッとしていない。「舞台のスチール写真を見ると余りに映画的なので、映画に食われた演劇だ。」という指摘は、さすがに驚異的な量の映画を見ている蓄積を感じさせる発言でスゴイと思わせたものだ。が、スチール写真はあくまでも二人の女優をクローズ・アップで撮ったもので、舞台の観客はあのようなショットはオペラグラスを通さないかぎり見えないのは当然。映画なら二人の女優をアップで見続けることが可能だが、舞台だと広い空間の一部に位置するだけの二人を遠い所から見る形になるので、良くも悪くも演劇的な空間を脱しにくいのではあるまいか? 空間のみならず時間も、舞台ではいくら「場」を細切れにしようが映画におけるロングショットにならざるをえず、数台のカメラ(視点)を導入する映画との差異は歴然としていて「映画に食われた演劇」とは言い難いというのが私の氷解しない疑問。
 これも今は昔、横光の初期作品の論文を審査した際に、映画と演劇の差異を考えさせられてことを思い出した。この問題は奥が深そうで面白そうだが、非才な私には手に余る。誰かおせ〜て(教えて)!