法律の言葉と文学の言葉

(台風ものともせず、7時限の授業(7時40分〜)をキチンと2時間超にわたって院生と充実していたら、中央線が止まって帰れないのでブログで時間潰し。)
詳しい状況はまだ記すことはできないけど、先日、「法律の言葉と文学の言葉」というようなテーマで議論することがあり面白かった。
入学時の同クラスだった友達で、松山で弁護士をやっているヤツがいて、松山に行った時に(2度行ってるけど、その1度目)同じテーマでチョッと話したこと思い出した。
基本的には法律の立場からは、使用言語はできるだけ多義性を排除しなければならないそうで、言われてみればナルホドというしだい。
しかし文学からすれば、シェークスピアが分かりやすい例の通り、多義性そのものを楽しむことが肝要。
昔のシェークスピア翻訳ではその多義性をあまり生かさなかったところ、小田島雄志さんが多義性を忠実に生かそうとして訳したところ、舞台では1分に1度笑いを掻き立てたので、台詞を勝手に書き加えたと誤解されたそうだ。
(ちなみに小田島さんのとそれ以前の翻訳を比べてみるといい。)
日本では言葉の多義性は、江戸時代に質量ともに開拓・追求されて花開いた(古今集を頂点とする掛詞という先例はあるが)。
言語の表層では面白可笑しく笑わせ、深層では権力者を批判する意味を潜めさせるという手法が大衆から支持され(絵画でも同様の手法が使われた)、挙句の果ては表現者に対する政治的な弾圧がまかり通ったわけである。
井上ひさし直木賞受賞作品「手鎖り心中」がその手の作品。)
ともあれ法律の立場からすると、シニフィエシニフィアンは一対一に対応していることが望ましいので、言語は一義性が理想となりって多義性は排除されざるをえない。
言語は意味を伝える道具と堕してしまうことになるので、法律の言葉は限りなく貧相になって面白味を失っていく。

(というところで(午前1時半)中央線が再開されたので中断)