「学芸大学セクハラ事情・その後」のその後

込み入った付題をしたのは、中野重治「「『文学者』に就いて」について」とかいう題をマネしたもの。
プロレタリア文学の歴史の核となって闘い続け、謹厳実直のイメージだった中野にも、こういう言葉遊び的なところがあるのが面白い。
文学は元々言葉遊びだったのだし・・・自然主義白樺派・プロ文という流れが<遊び>の要素を抑えながら<真面目>の方向に舵を切ってしまってから、文学が多少とも偏頗になってしまったしだい。
といっても、中野の批評文は小林多喜二の虐殺を想起しながら、自身の転向の屈辱を乗り越えて闘い続けることを誓った極めて重い文章で、読んで感動してもらいたい。
なにやら文学史の講義めいてきていけない、「その後」を書くつもりだったのに。

前回、学大も某有名私立大学のように学内に言論抑圧令を敷く可能性を感じて、慌ててその前に伝えておきたいことを急ぎ足で記したしだい。
その私立大学では、セクハラで教員を免職にした際に学内の教員に一切の反対言動を禁じつつ、その件で電話やメールのやり取りをすることも禁じたという。
我慢できなくなった知人が、已む無く学外のボクに相談の電話をくれたけど、さすがに打つ手は無かったネ。
せいぜい仕事があれば回そう、という程度に止まったと思う。
後で学生から聞いたのは、処分された教員が名前の似ていた別の御仁かと思っていたら、罪の軽そうな方が処分されていたとか・・・とかくこの大学の文系こそ評判通りのセクハラ天国の名に値しよう。
上の世代の方々は精錬潔白な方ばかりで、尊敬の気持を持ってお付き合い願っているのに、ボクより下の世代がお盛んなようで「泣き寝入り」を強いられる女子学生に同情するばかり。
以前にも記した気がするが、この大学文系ではセクハラのみならず、学生に万単位のコピーを学生負担でやらせるとかのアカハラパワハラも平然と行われているそうな(教員の意向に反して、その下で動いているヤカラの行為とも推測される)。
他大学はともあれ、幸い我が学芸大学の執行部は学内の言論抑圧までの「狂行」はやらなかったので、ここに補足を記すことができるわけだ。
某私立大学ではその件以前に学内の言論抑圧が施行されたので、「言論の自由」のためにビラを撒いているドエライ教員がいるという新聞報道を読んでみたら、何と旧知の○○ではないか!(大学名がバレるので実名は伏す)
在籍していた大学は異なるが、共に「全共闘時代」を生き抜いた後で知り合った仲。
ボクと同様、クラシック音楽が大好きな彼も必ずしも<外向的>な人間には見えないが、大学執行部の言論抑圧は<見逃せ>なかったのだろう。
セクハラもイジメも<見逃し>てはならないと強調されながらも、フツーの人にはなかなかできないのも世の常なので、どうしたらいいのかと考えいるところ。
前回では自分を見つめなおす好い機会だと思い、過去を振り返ってみたけれど、後から思い出したのは前橋第二中学校時代の行動。
下火にはなっていたとはいえ、当時は「不良中学」の名で知られていたくらいのモンダイ校だった。
昭和30年代だから、まだ民族差別的な言動が子供にも反映していたように感じていたが、クラスにイジメられっ子がいて廊下で別のクラスのイジメっ子に手を掛けられていたのを目撃した。
幼稚園時代に友達がイジメられていたのを<見逃し>て先生から皮肉られたことがあり(それをたった今思い出した)、その罪意識にも駆られたのか、思わず立ち上がって暴力を止めに入った記憶は消えない。
小学4年生から中学までは柔道場に通っていたので、「不良」もボクには手を出せなかったのだろうが、「後で便所裏に来いヨ」という捨て台詞は残して行った。
当時は便所裏と言えば、「不良」がイジメられっ子を連れて行って悪事を働く場所だった。
すぐ後でクラスの「不良」気取りの友達が「行くなヨ」と言ってくれたせいか、そのまま事なきを得た。
どうも<見逃さ>ないためには、気力のみならず体力もあった方がいい、という結論になるのかな?

某私立大学ほどのバカな段階までは進まないと思うが、間違いなくバカな方向に向いているのが学大の現状だという認識は教員の誰しもが感じていることだろう。
もちろん文科省の方針のせいもあるのだろうけど、大学としての見識や主体性に欠けて居心地がますます悪くなっているのは否定しようがない。
そのことを前回最後の方で、役職に就いている方と昔を懐かしんだと記したということ。

奥歯にモノが挟まった言い方に聞こえるかもしれないけれど、近々学大が騒然とするかもしれないことを明かす予定なので楽しみに待っていて欲しい。
大事なことを一件。
学大のセクハラ問題では、勇気ある女性教員が被害者の証言を集めてくれたのだが、当事者を除く国語講座の教員が証言集を読ませてもらった際に、「他にも、これ以前にも以後にもセクハラがなされた可能性は十分ある」という直観はボク個人のものではなかったろう。
事実、その女性教員には新たな被害者の存在が知らされているそうではあるが、やはりセクハラ被害は本人のナマ証言がされにくいという事情で、学大でも容疑者の「やり得」に終わってしまうのが残念無念!
例えナマ証言はできなくとも、新たなハラスメント情報があれば、積極的に担当の大竹美登利副学長にメールその他でお寄せ下さい、というのが大事な一件。
 midori-o@u-gakugei.ac.jp
被害者の証言を<見ぬ振り>をするばかりか、執行部があたかも法律家に洗脳されたごとく、大学ではなく裁判所にいる様(さま)で「ナマ証言でなければ根拠が無い」という、教育現場にあるまじき見識・主体性を欠落させた判断・動き方をしているので、確かに学大の未来は暗く、「セクハラ天国」の名を某私立大学を争うようにならなければ、と心配ばかり。
素晴らしい才能・能力の研究者、魅力ある教育者もたくさんいるのに、それらが発揮される機会が必要以上の管理の下で奪われていくばかりで、どこにでもあるフツーの大学と差異化されなくなっているようだ。
執行部がシッカリして被害者を守ろうとしていれば、ボクもこんな汚らしい問題にクビを突っ込まずに、安穏として研究と教育に励めるのに、今では学大に来たことを後悔する気持まで湧いてきて情けない。

坂口安吾論が終わり、今度は太宰治「右大臣実朝」という作品についての論を依頼されている。
十分に成功した作品とはいえないかもしれないが、個人的には大好きなもの。
この作品が発表された太平洋戦争の真っ最中、太宰ほど売れない作家がヤッカミで「太宰は皇室に厚かった実朝をユダヤ人呼ばわりして怪しからん。」とケチを付けたそうだ。
「右大臣」を「ユダヤ人」と読み替える言葉遊びには十分敬意を表するが、訴える根性があまりに汚くて不潔だ。
この場合の<多義性>は知的でなくツマラナイ。
実朝の言葉に「平家ハアカルクテヨイ」というのがあるが(実朝の言葉は異次元化されてカタカナ表記)、確かに正当な血を引くトップが次々と殺されていく源氏の暗さとは差異化される。
学大の今は平家のアカルサが消滅していくイメージだが、昔の蓮見学長時代にも似ているか。
あの見識の無い学長の時代は、学長自身が教員処分を打ち出し(それも無断で非常勤講師をしたとかの理由)、ボクらの反対発言で学長提案を否決したので事無きをえたのだけれど。
これに比べればワッシー学長時代は平家のアカルサが残っていた。
その頃のブログで記したように無能で威張るだけの副学長もいたものの、ワッシーと馬渕副学長の二人が主体性を持って学大最後の足掻きをしていたのは、今から思えば立派なもの(お二人の意見には賛同できないものもあったが)。
そのワッシーも今では同窓会長という執行部の傘下にいるので、迷惑を掛けては申し訳ないからこちらからも連絡を断っている。

卒業生のリクルート用の推薦書を書いていたら目が冴えてきたので、「その後」に移ったら長くなって疲れた。
ホントは土曜日に早稲田大学であった坂口安吾研究会の印象を書きたかったのだけれど、また今度。
やっぱり<外向>(学内問題)よりも<内向>(文学研究)の人だという自覚はあるのだけれどなァ・・・