学芸大学は大学ではない  授業アンケート結果  来週は芥川「藪の中」と菊池寛「形」

今日は授業のオリエンテーションながら、時間ギリギリまで講義した。羅列すると・・・
① 今の学芸大(のカリキュラム)は大学とは名ばかりで、実質は専門学校に過ぎない。
② だから自分で種々の能力を獲得するような努力をしないと、私立大学の文学部学生と教員採用試験で競っても勝てない。
③ 幸い学大の国語科は学生の自主ゼミ(とはいいながら顧問教員の指導・参加が多い)が盛んだから、興味のあるゼミに入ると力が付く。
 <授業を聴くなら教科書必携のこと(自分一人で読んでも楽しい作品が勢ぞろいしているのでお買い得)>
④ 近代文学の「概論」も「文学史」も半期しかないカリキュラムなので、春秋の学期で文学の歴史の中を行ったり来たりすることで無駄な時間を使わないため、「概論」と「文学史」を一緒に講義する。今年の春学期は大正末から昭和20年代半ばまで(横光利一から安部公房まで)をやったので、秋学期は大正期から明治を遡って行く予定。
⑤ 文学史も作品や作家と同じく<読む>ものなので、人によって様々な文学史がある。
例えば元号(げんごう)で区分するのに反対する向きのイデオロギーもあるが、基本的には元号区分の文学史を講義しながら、必要に応じて1930年代というように西暦も使用する。
⑥ 明治と昭和が政治(イデオロギー)の時代だとすれば、大正は「大正デモクラシー」の名のとおり政治的には緩やかな時代のイメージであり、芥川や志賀直哉などの文学を特徴づけている。
⑦ 「概論」的な内容として、文化人類学山口昌男)の「中心と周縁」・トリックスターについて講義した。例として「源氏物語」や「三年寝太郎」(木下順二)、太宰治「ロマネスク」を挙げた。

授業から戻ってメールボックスに行ったら、春学期の「授業アンケート」の結果が届いていた。(もう少し早く届けてもらうと、最初の授業で結果を紹介できたのに、と悔やまれる。)
学生と教員の関係は<非対称>であり一方的(例えば教員は学生を処分できても、学生は教員を処分できない)なので、授業アンケートは教員が相対化される唯一絶好の機会。
したがって学生は私情に駆られることなく真面目に記すべきであり、教員は素直に受け止めて改善すべき点は工夫しなくては硬直化するばかりとなる。
学生の授業評価は当てにならないという声はよく耳にするが、確かに学生に甘い姿勢をとれば評価が高くなるであろうし、厳しく指導すれば教員評価が下がるという傾向は否定しがたい。
だから教員は常に自らを対象化する姿勢を失うことなく、アンケート結果もそのために汲むべき所は汲んで大いに利用すべきである。
とはいえ教員を傷つけるのを怖れてか当り障りのない項目ばかりなので、私は自由に記す欄に沢山書いてもらうことにしているので、自己を対象化するのにとても役だっている。(これは教授会でも発言した。)
来週の授業で紹介するつもりながら(毎回やっている)、「日本文学概論Ⅰ」のアンケート結果を(40人超が自由に記してくれた)私の側の弁明も付してここに記しておく。
① いつもながら「難しい」という感想がザッと15人近くいたが、「難しかったが、充実していた」と続くのが多いのでホッとした。
学大でも中にはゆる〜い授業をする教員もあるようだが、私は常に「大学生と思って講義するので、意欲があれば理解できるはずだ。」という前提で授業に臨んでいる。
かといって1,2年前だったか定年退職した数学の教員(達)のように、半数以上も単位を取れないほど現実離れした程度の<自己閉塞>した授業になったら教員の側が落第である。ちなみに私の講義の授業で落ちるのは、毎回5人以下。
② 話題の転換が早過ぎて話の主線が見えにくくなることがある、という感想も毎回少なくないのでキチンと自覚して講義して行きたい。
真面目な話ばかりだと付ききれない学生もいるので、気分転換も含めて意識的に話題を転換する(雑談も含む)ことが多い。
それに十分対応できずに混乱してしまう学生もいるようなので、自覚と工夫が必要だと反省したい。
③ 板書に関しては毎回苦情が記される。受講者が多い時は、教室が広いので後ろからはハッキリ見えないという苦情。
前の方の席が空いているのに後に座るという傾向があるのに、とは思いながらも見ようと思うのに読めない字ではいけない。
結構板書するタイプなので、黒板が狭すぎるという書きにくさは常に感じている。
何とかできるなら何とかしたい、とはいつも思っている。
板書についての苦情で、私が後から書き足すことが多いので、板書だけだと後から分からなくなるというのも毎回ある。
これについては、大学のノートは自分で作るのだヨ、といつも注意している。
板書は講義の一端に過ぎないので、聴き取ったことを自分のためにノートを作るという発想の転換ができていない学生から、板書を分かりやすくという要望が出る。
できるだけは要望に応えたいとは思うが、短時間(短期間)に盛り沢山の授業内容を詰め込みたいので、勢い板書に付け加えが多くなる。
こちらも分かりやすく板書することを心掛けるが、理解した内容を自分のために記すのだというノートの基本は身に付けて欲しいもの。
④ 毎回出席をとって欲しいという要望も毎回出される。
高校時代までのように、教員が名前を呼ぶというのは「ボイス・コンタクト」という点で良いのは理解しているつもり。
でも毎回それをやるほど、時間的余裕が無いのは前記のとおり。なにせ半期の授業だから。
試験は不得意だが出席は得意という学生も必ずいる(逆も真なり)。そういう学生にも応えた気持は持っているがままならず、というところ。
⑤ 「(前略)結局この授業を通して何を伝えたいのか、目的がよくわからなかった。下品な話が多くて正直引いた。」という感想が気になった。
特に最後の一文、同じような感想が一作年だったかの免許更新の授業でも寄せられたのを思い出したので、ここで取り上げたい。
要するに授業内容が殆ど理解できないまま、表層の話題(テクストにしても私の説明にしても)の「下品」さばかりが残ってしまうという例なのであろう。
ここまでハッキリ書いてくれたので問題がハッキリした気もするが、文学が常に「下品」さを伴うのは必然で爽やかな作品・作家ばかりに限定して講義することは不可能。
来週取り上げる「藪の中」はレイプ小説であり、これをパロっているような井伏鱒二「炭鉱地帯病院」はもっとエロチックなレイプ小説だが、両方とも文学としては物凄くオモシロイ作品でお勧め。(と言うとまた「引く」のだろうけど理解できないのは仕方ない。受講者全員に網羅的に分かってもらえないのも当然。)
免許更新の時の受講者は現役の小中高の教員で、上記のような感想しか持てないというのは救いようが無いほど頭も心も硬直化していて、教員(少なくとも国語の)としては落第で即刻辞めた方が生徒のためなのだが、生活が掛かっているだろうことを考え合わせれば「不合格」にはしがたい。
今さら落とし難い教員を再教育しようとしても無駄なのだが、制度というのは動き出したら止めようがない。
新たに文科省の大臣に就いた田中真紀子が、介護実習以来のまた余計な思い付きを強行しなければいい、と危惧しているところ。
何事もプラス・マイナスの<両義性>をを持っているのだけれど、マイナスが多すぎることを無理強いすると現場がタイヘンなので、政治屋さんは殊に自覚・自己対象化を十分した上で実行に移ってもらいたい。
話題が膨らみ過ぎたようなので、これにて! (後は授業時に)