小熊英二「1968」  全共闘運動  自己否定

小熊英二の話題になった著書を研究室に備えながらも、読むヒマもないまま退職を迎えてしまってザンネンだった。
でも同時代を生きたファミリーがそれを読んで読後感を寄せてくれたので、ボクの返信も添えてここに紹介したい。

〈ファミリーの感想〉
「1968」は、上巻を読み終えたところですが、〈自己否定〉は、それまでの権利闘争としての学園闘争、早稲田、中央、日大等ではなかった概念で、エリートとして他者を押しのけて入学し、これからストレートに行けば、日本の国家機構、官僚機構等を支える存在になる東大生にして初めて出てきた問題意識だったとあります。特に東大闘争は、院生、助手たちのように、一定のコースに乗りかかった人たちが先頭に立っていたので、このまま行けば否定すべき研究者になってしまうという意識があり、〈自己否定)が大きな課題になっていったとあります。〈大学解体〉も、権力装置の一端を担う大学の解体ということだったようです。もちろん 、このことは否定的にだけとらえられているわけではないのですが、勝利にたどり着くことはあり得ないことはなくても果てしなく困難だったというのは、そうかもしれないとおもいます。
これから下巻で、1969年になって大きく広がった地方大学の闘争も、理念として東大闘争を引き継いだということが書かれていくようです。それで、私も〈自己否定〉は普遍的な理念かと思っていました。そして、大学生であれば少なかれ、〈自己否定〉の契機はもっているので、全国にも広がったのではないかとも思っています。

〈ボクの返信〉
説明はよく分かりますが、同時代に生きていなかった筆者(小熊英二でしたっけ?)の後付けのようにも思えます。
自己否定を東大で独占してしまったら貧相な意味に限定されて残念です。
新左翼或いは全共闘の運動をそれ以前の学生運動と差異化する指標は〈加害者意識〉だと記したことがありますが、この意識の一部が〈自己否定〉だと思います。
この意識は日本限定ではなく、世界の若者のものとして共有されたと思います。
だからこそ日本のみならず全世界に拡がったのだと思います。