その3

 
「熊野」

 「熊野」(昭34・4)における〈閉塞〉対〈開放〉の対照は捉えにくいかもしれない。
《私が一旦かうと決めたことは、変へるわけには行かんのだ。》 
《俺に大切なのは今といふ時間、今日といふこの日だよ。その点では遺憾ながら、人のいのちも花のいのちも同じだ。同じなら、悲しむよりも楽しむことだよ、ユヤ。》
 右の台詞を読むと、己の考え方に〈閉塞〉しているのは宗盛だと勘違いする向きもあるかと思われるが、彼の傍若無人な自分の貫き方には根拠があることが判明していく、という流れである。己の「感情」に閉じているのは実はユヤの方であり、宗盛はユヤの閉じた姿勢を正していく、という展開の仕方は計算し尽くされている印象である。
《(ユヤの顎をとつて)その悲しさうな顔を今度は、勇気を出して楽しみのはうへ向けるんだ、ユヤ。君の顔は月のやうなもので、楽しみの光を受ければ照り、悲しみの影を受ければ翳る。自分の感情にがんじがらめになるのはよして、思ひ切つて楽しみへ身を投げるんだ。さうすれば若い君は、おふくろの病気なんか忘れてしまへる。》
 母親が病気だという虚偽を理由にして北海道の恋人に会いに行きたがっているユヤに対し、宗盛は虚言に気付いてない振りをして「自分の感情にがんじがらめ」にならずに、「楽しみ」へ自分を開くように促している。ユヤは母親が重篤な病気で死にそうだという「悲しみ」を想定して、その中に「がんじがらめ」になっている自分を演出しているわけである。ユヤの「悲しい」表情の裏には、恋人の薫に会えるという「楽しみ」が隠されているので、宗盛に自分を「触らないでね」と言う拒絶には真実味がある。それを知らない読者(観客)の同情を引くには母親の病気だけで十分な場面ではあるが、直前には秘書からの電話に応対する宗盛の台詞が置かれている。「そりやあ御苦労だつた。」という言葉は、後になると本当は健康な母親を北海道から連れてきた報告らしいと判るのだから、再読した方が楽しめるテクストである。
 論としては種明かしめいたことを先に言ってしまったので、後は落穂拾いめいたことを付せばいいだろうか。宗盛は何度も「感情」という言葉を口にしながらユヤの〈閉塞〉を開こうとするが、ユヤは「道成寺」の清子と同じく「愛」を口にして閉じている。
《ユヤ (顔をおほつて)愛してゐたら、そんなわけはないわ。愛してゐらつしやらないんだわ。
 宗盛 又愛なんぞといふものをそこへ持ち出す。俺は楽しみのことを言つてゐるのだ。君を連れて花見に出かける。それで俺は満足だし、楽しいんだ。》
 「感情」にしろ「愛」にしろ、ユヤはそれに〈陶酔〉しているだけだというのが宗盛の把握であり、彼の強調する「楽しみ」が思い込みからの〈解放・開放〉を意味するのは見やすいだろう。それにしても宗盛の徹底ぶりは常人の域を超えている。『近代能楽集』に通底するものとして指摘される、〈ニヒリズム〉を体現する一人であろう。
《ユヤ もし母の死目に逢へなければ、後悔に苦しむのは私ですわ。
 宗盛 君がどうして後悔する。何もかも俺のせいにして、俺を怨めばすむことだ。花見に行きさへすれば、君も俺も二人ながら、あの後悔といふやつを免れる。
 朝子 あなたのはただの楽しみの後悔。 
 ユヤ 私のは一生ついてまはる怖ろしい後悔。
 宗盛 二つながら消えるだらう。黙つてついて来さへすれば。目をつぶり、何も考へず、黙つて俺についておいで。後悔はこの世から消えるだらう。さうして悲しんでゐる美しい女の世に稀な花見の姿だけが、人の記憶に残るのだ。
朝子 ユヤを人形にしたあげく、あなたは今度はユヤを美しい絵の中に、塗り込めてしまふおつもりなのね。》
 宗盛が「後悔」を「真黒な陰気な顔をした化物」として毛嫌いするのは、それが抗いようもなく自分だけの「感情」に閉塞させるからであろう。それから免れるためには残されたチャンスが今日だけの花見に行かねばならないのであり、ユヤに「後悔」させないためには、自分が憎まれ役になっても構わないとまで余裕のあるところを示す。それほど宗盛にとっての花見は「ただの楽しみ」ではなく、「後悔」によって自己閉塞しないための大切なものである。一生ものの「後悔」として自己劇化にいそしんでいるユヤとの対照は滑稽でさえあるものの、恋人に会えなくなるユヤ本人からすれば、癒しようのない悲しみとなる。
 北海道で病んでいるはずの母親が連れ出されてきて急転回し、宗盛と彼の許容のお蔭で去らずに済んだユヤの二人が残される。幕切れの台詞のやり取りは、唐突のようでありながらも、右の宗盛の言葉で説明されている。「悲しんでゐる美しい女の世に稀な花見の姿」がそれである。
《ユヤ ひどい雨ね。今日はお花見ができなくて残念。
 宗盛 (自分の首に捲かれたユヤの腕を軽く解きほぐし、その手を握つたまま、女の顔をやや遠くから見つめて)いや、俺はすばらしい花見をしたよ。……俺は実にいい花見をした。
                                 ――幕――》
 虚構の「感情」に硬直していたユヤを解きほぐすように、その腕を首から外しながらつぶやく宗盛の「すばらしい花見」は、先行する台詞を前提にしないと理解できない。「悲しみ」に囚われている美女でなければならないからこそ、嘘がバレたにもかかわらず放逐されなかった喜びを抑えがたいユヤに向かって、宗盛は注文をくり返す。
《宗盛 君は行くには及ばないよ。
 ユヤ (次第に微笑をうかべる)さう。(ドアをうしろ手に閉める)……さう。
 宗盛 さつきのやうに、そこのベッドに掛けておいで。(ユヤ言はれたとほりにする)さうだ。そして、さつきのやうに、悲しさうにしてゐるんだ。》
《宗盛 しばらく黙つてゐないか。
 ユヤ ええ。
   (――間。ユヤ。上着を脱ぎ、宗盛のそばへすり寄る)
 (略)
宗盛 それにしても、さつきのやうに、もつと悲しさうな顔はできないのか。》
 母親の証言のとおり、北海道から戻ったら再び宗盛の世話になるつもりだったしたたかなユヤらしく、宗盛から許されるとすぐに切り替えてはしゃぎ出す。ユヤが脱いだ上着は冒頭のト書きに明記されているとおり「旅行服」であり、一時的であれ外の世界へ旅立とうとしていたユヤが暗示されていたものの、宗盛の手腕のままに再び彼の「絵の中に、塗り込め」られることになる。その「絵」の構図はどうしても「悲しんでゐる」女でなければならないので、宗盛はその美意識によって明るくふるまうユヤを抑えるのである。
 テクストを振り返ると、宗盛は「悲しんでゐる美しい女の、世に稀な花見」という言葉を語る前に、すでにそうした構図の絵を満喫しているのである。
《   (涙を拭つては読み進むユヤを、宗盛は葉巻をくはへてじつと見つめてゐる。朝子がやがて宗盛のこんな態度に気付いて、そのはうをキッと見る)    
 朝子 どう? 宗盛さん。ユヤは泣いてゐる可愛いきれいな人形だわね。
 (略)
 宗盛 (朝子に)何を言ふんだ。(たのしげに)俺は同情して聴いてゐる。》 
 演技とはいえ、泣きながら手紙を読むユヤに「悲」によって強化された「美」を見出し感動している宗盛は、ユヤと同じ境遇にいる朝子の格好の攻撃対象とされるのは必然である。策略によって「悲」に淫した「美」ではあっても、宗盛のニヒリスティックな美意識からすれば、この上ない「すばらしい花見」だったに違いない。

 ここで本論の最初に断った、舞台や演出に関しては黙秘を貫くという方針を破って一言。六本木の地下にあった自由劇場の「上海バンスキング」のみならず、つかこうへい絶頂期から事務所解散後の故三浦洋一の一人舞台まで、そして東大駒場の寮食堂で公演していた初期の野田秀樹などを追っていた、往年の演劇ファンの興味が掻き立てられるからである。『近代能楽集』を舞台に乗せる時には、短篇のため二つの作品が同時に演じられることが多いようである。とすれば、「道成寺」と「熊野」を同じヒロインで演出するのも一つの方法ではないかと愚考する。似た構造の作品であるために能楽集の多面性は見せられなくても、二つの作品の連動性を見せる試みにはなるであろう。言うところは、箪笥の競売に参加した「紳士」の一人をパトロンにすべく向かった清子の、落ち着いた先が宗盛だったという設定である。ヒロインを同一にすれば、説明する必要もなく二幕の作品として享受する可能性が開けるというものである。

 「邯鄲」 

 「邯鄲」(昭25・10)も「熊野」と同じく二項対立が見えにくい作品であるが、大局的に見れば「道成寺」を含めて〈閉塞〉する女に対する〈開放〉された男、という構図として読めるであろう。対立が見えにくいのは、これまでの五作品と異なり、閉じる側の求心力が弱く映るからである。閉じる女である菊のみならず、開かれた男である次郎の側でも、閉ざされてあることの苦悩を通過しておらず、実体験の裏付けを欠いて頭の中だけで人生の無常を先取りしているだけなので、その〈開放〉された在り方も薄っぺらなものに映る。だから「ボクの人生はもう終つちやんだ」と繰り返す次郎の方こそ、夢の中の美女に指摘されているとおり「自分の理屈に自分で酔つてる」とも見えてしまう。俊徳を連想させる次郎の方こそ〈閉塞〉していると受け取られてしまうのも、双方の側のインパクトが欠ける要因でもある。俊徳が級子に「僕はそんな女はきらいだ。」と言うように、次郎も「僕はちつとも君を好きぢやない。」と口をそろえるが、戦火を浴びてない次郎の軽さはいかんともし難い。そもそも「十八くらいのダブルの背広姿の少年」である次郎のアンバランスは、登場した時から滑稽な感じを否めない。
以上のように大局的に見るまでもなく、〈閉塞〉する力も〈開放〉の力も共に迫力を感じさせないので、作品が訴える力も他の作品に遠く及ばないと感じられる。字面を追うだけの読者は当然にしても、菊の元夫の存在を含めて、舞台で観ても観客を動揺させる力が伝わってこないと察せられる。喜劇だと思って観れば別の感慨が湧くであろうが、それはまた後ほどということにする。
ともあれこの元夫も位置づけしにくいものの、その在り方は次郎の台詞から読み取れよう。
《菊 (床をとりつゝ)うちの庭は死んでをりますんですよ。花も咲かなけりや、実も結びません。かうなつたのは、ずつと前からでございます。
 次郎 ずつと前からつて、君の旦那様がここを出てつてからかい?
 菊 よく御存じでございますこと。
次郎 僕は何でも知つてるのさ。でもこの話は本で読んだんぢやないんだぜ。僕ね、このごろ銀座でチャップリンの恰好をしたサンドヰッチマンと知り合ひになつたんだ。この人はね、独り者で、コーヒーを飲むことと活動を見ることとがたつた二つのたのしみなんだ。
コーヒーと活動だけで十分仕合せになれる人なんだ。この人が話してくれたんだよ、その話。》
《次郎 チャツプリンはかう云つてたぜ、あの枕で寝てちよつと夢を見ると、何もかもみんな馬鹿らしくなつちやふんだつてさ。その後で奥さんの顔を見るとね、こんな女と暮してゐるのはなぜだかわからなくなるんだつてさ。それですぐ家をとび出してしまふんだつて。》
 一杯の紅茶さえあれば他に何もいらないと断言して一人閉じこもった「地下生活者」(ドストエフスキー)と同列のような元夫は、社会的に見ればやはり〈閉塞〉した側の人間として位置づけることができよう。本人は満足していようが妻を捨てて勝手に自己完結しているだけであり、残してきた家の庭に「死」をもたらしたまま、取り残された妻を「ぢつとこのまま老い朽ちてゆくつもり」にさせた罪は軽くはあるまい。
 つまり元夫は菊とは別のもう一つの閉じ方をしているのであり、それまでの半生が「何もかもみんな馬鹿らしく」なって捨てたのは、その後の人生の先取りであるという点では次郎と五十歩百歩である。三人だけの登場人物ではあるものの、それぞれの位置づけが困難なゆえんである。次郎は元夫の生き方に関心は寄せるが、それを理想化(絶対化)はせずに別の道を歩もうとしている。だから夢の中の美女に向かって酒に「酔ふのはきらいだ」と言いながらも、結果的には「自分の理屈に酔つ」たまま菊と共に留まることになる。元夫をユングの言う〈実現しなかったもう一人の自分〉という意味の「自己の影」と呼んでも良かろう。菊が帰ることのない元夫の代わりに次郎と暮すのを喜んで受け容れるのも、次郎とその「影」である元夫が菊の中でも重なりやすいからである。
《次郎 菊や、僕いろんな夢を見たよ。
 菊 (不安にかられ、声をひそめて)やつぱり……
 次郎 やつぱり、つて云つたつて、僕はすこしちがふんだ。人生つて思つたとほりだ。僕はちつともおどろきやしない。
 菊 あなたさまももしや主人のやうに……
 次郎 僕はどこへも行きやあしない。
   (略)
 次郎 おあきらめよ。旦那様のこともあきらめなさい。僕はどこへも行きやあしない。だから君も僕について来るチャンスはないし、旦那様にあへるチャンスもないんだ。
菊 さう仰言つていただくと、却つて安心したやうな、力強い気持がしてまゐりますから、変ですこと。
 次郎 菊や、それがほんたうだよ。つまり菊やは生きるんだよ。》
 出て行った元夫の代わりのように、次郎が再現された幼時の部屋に留まることを告げた時に、菊も庭も解き放たれて生き返る。その点に限れば、次郎は紛れもなく〈解放〉の人であるに違いない。そこで幕は閉じられるので「大局的には」カタルシスを迎えるのであるが、菊と庭は〈解放〉されたものの当の次郎自身は解き放たれたのか、と問うと話は簡単ではない。菊や元夫とは異なり、枕の呪縛に囚われなかった次郎は自足しているであろうが、人生を観念的に先取りしたまま「思つたとほりだ」と決めつけている姿は、邯鄲の里の精霊が見抜いているように「生きながら死んでゐる」のと相違ないからである。
〈閉塞〉状態の菊に比べると〈開放〉されているように見えるものの、己の思い込みの世界に閉じられている点では、「もう終つてしまつた世界に花が咲きだすのは怖ろしい」と言っていた俊徳と差異は無い。俊徳の閉塞は級子によって解かれるものの、次郎の幼い自己完結を崩すものは提示されないままである。しかし口先(顕在意識)だけで人生を先取りしているかぎりは滑稽で済ませることができるが、人間存在をより根本的に決定づけているとされる夢(潜在意識)の中でさえも、欲望の挫折を知らぬままに欲望を切り捨てて見せる次郎の悟りは、危ういばかりで読者(観客)の不安を拭えない。夢の美女から「あら、慄へてる。あなたの手が、」とからかわれている次郎の手は、現実の世界に触れたことのない者の慄きが瞭然としている。他者を解放しながらも自らは閉じたまま、という不完全なカタルシスにこだわりを残す読者(観客)には、人生におけるインポテンツとしての次郎が自己防衛的に悟りを語って閉塞してしまう喜劇、という「理屈」で納得してもらうほかあるまい。外から見れば喜劇でも、当人からすれば悲劇となるパラドックスは強調するまでもない。